どこからかたよりないピアノの音色がただよってきた。
　エリック･サティの「ジムノペディ」。
　誰の演奏かなんて分からない。いずれ名のあるピアニストの手によるものなのだろうけれど、そんな事はあたしの知ったことじゃないし、大体、あたしはこの曲が嫌いだ。
　なのに、これを聴かされるといつだって、いらついてささくれだっていた神経がイヤでも落ち着いてきてしまう。誰が仕組んだ嫌がらせなんだか知らないけれど、ほんと、気に入らない。
　あいつらはいつだって、ふたことめには世界の為、人類の為って、人間コンピューターにされちゃう肝心のあたし自身の事なんて、これっぽっちも考えちゃいないのよ。
　それも仕方がないんだなんて、６番目のサラカエルは言っていたけれど、あたしは全然納得できないわ。
　大体、あたし達をこうして、自分らのいいようにいじりまわしているのって、人権侵害とかいうものなんじゃないのっていったら、メフィストフェレスみたいな医師が、これは国連人権委員会で承認された事なのだから、何ら問題はないって答えやがったのよ。
　人の身体やら脳やらを好き勝手にして人権が保護されているも何もないもんだと思うのだけど、脳だけを取り出して機械の中に押し込めちゃう事もできるところを、そうはしないで人の形をきちんと残しているから、それで人としての権利は護られているんだって、訳の分からないゴリ押しの拡大解釈が通ってしまったらしいの。
　遺伝子の何とかいう部分を細工してあたし達を不老不死にしたのだって、生命倫理とやらに反していると思うんだけど、大儀を前にしては多少の事には目をつぶるって、バチカンの偉いさんまで認めちゃったらしいから、もうあたし達をモルモットにするのに何の障害もないってわけ。
　おかげで、実験を繰り返していく内に、あたし達の仲間はどんどん減っていっちゃった。尊い犠牲だ、人類の未来の為の礎になったのだ、とかメディアは美辞麗句を並べているらしいけど、ああそうなのか、なんて涙を流して感激する子は、ここには誰もいないわ。
　施設には最初は何百人もの子供がいたのに、頭の中には宇宙船の事ばかり詰め込まれ、身体は生体実験の材料にされる十年あまりを経て、今ではあたしを含めて７人しか残っていない。皆あいつらに殺されちゃった。「７」っていう数字に変な運命を感じているスタッフもいるけど、あたしとしては、皆が元気でいる方が百万倍も良かった。
　もう死にたいと思ったことも何度もある。できるものなら自殺でもして、あたし達に人類の未来を託しているとかいう指導者の連中の鼻を明かしてやりたい。
　だけど、それができないんだな。洗脳って言うのかな、変なヘルメットを頭にかぶらされて、徹底的に刷り込みを受けてしまった結果、あたし達は管理者からの命令には絶対逆らえず、自らを傷つけるような行為をとる事も出来ない、そんな従順な存在にされちゃったんだから。
　アイザック・アシモフのロボット３原則っていうの知ってる？ちょうど、あんな感じ。
　「ジムノペディ」のボリュームが少し上がった。
　誰が仕組んだのか分からないってさっき言ったけど、この曲を精神安定剤代わりにしようと提案したのは、メフィストフェレスに違いない。今、あたしがそう決めた。マロニエ並木のオープンカフェでエスプレッソでも飲みながら、「おフランスの音楽は最高ザマス」とか言っているのが、あんな嫌味な奴にはお似合いだわ。
　メフィストフェレスはドイツのモノじゃないのか、という突っ込みは、この際無視させてもらうわね。
　ああ、段々眠くなってきた。
　もう、あたしはこの曲、大っ嫌いだってのに。


　身体のあちこちにあるコネクターにジャックを差し込む瞬間の、全身を悪寒が這いずり回るような感覚には、いつまでたっても慣れやしない。船と一体になるという事自体には、最近、ようやく馴染んできたけれど。
　昨日、４番目のウリエルが旅立った。これでミカエルから順に、ガブリエル、ラファエル、ウリエルと、およそ２カ月おきに地球圏を離れていった事になる。再来月にはラグエル、それからサラカエル、そしていよいよあたしの番だ。
　目的地が決まっていないのに無理やりに送り出すというのは、実にお笑い種だとあたしは思うんだけど、何か、お偉いさん達はそうは考えていないみたい。ひどく悲愴な顔をしてみせて、現代に蘇った箱舟だとか、世界の終末を見送る７人の天使だとか、そんな御託はどうでもいいのよ、こっちとしては。
　どうせあんた達の命令には逆らえないように作り変えられちゃってんだし、行けと言われれば行くしかないんだから。いっそビジネスライクに、これが君達の仕事だから頑張ってくれたまえ、とか言われた方が、下手な三文芝居で涙を流されるよりナンボかマシだわ。
　これから先、どれだけ長い航海があたしを待っているのかと考えると、ぞっとする。人の居住可能な惑星を見つけるまで旅は終わらないって、どこにそれがあるかも分からないんだから、砂浜に落とした小石を見つけ出すのよりも難しい話よね。
　もしもそんな星が見つけられたら、冷凍保存されている遺伝子データを用いて、船内の設備で人という種を再生する、つまりお前は新たなる星の人類にとって、創造主になるのだって、そんなものになりたいなんて頼んだ覚えはないわよ。
　超光速航行のできる最新鋭の船だか何だか知らないけど、行く当ても無い宇宙空間を、たった一人っきりで何十年、何百年も話し相手も無く旅しなければいけないって、そんな状況、想像できる？
　普通なら、気が狂うわよね。
　だけどそれでちょっとでも精神に変調をきたしたら、それを感知したセンサーがまたあの「ジムノペディ」を流し始めるのよ。そういう仕掛けになっているの。それであたしはまた正気を取り戻して、「人類の未来の為に」さまよい続けなければならないっていうオチ。
　終わりのない悪夢ってわけで、まったく、自分で言っていて、できの悪い冗談のようにしか思えないわ。
　それと、あたしを「Ａ‐０７」って番号で呼ぶのはやめてほしいわね。施設でモルモットにされてた頃も番号で呼ばれていたから、いまさら何も変わらないってサラカエルなんかはあきらめていたけど、計画の最終段階になってようやくメフィストフェレスに与えられた気に喰わない代物とはいえ、今ではあたしにも一応、レミエルっていう名前があるんだから。


　その星系を見つけた時は、嬉しさ半分、悔しさ半分といったところだった。
　これでもう宇宙を放浪しなくていいというのは確かに嬉しかったんだけれど、おかげでメフィストフェレス達の思惑通りにハマってしまうのかと思うと、やっぱり、何だかムカつくじゃない。
　だけど下されている命令には逆らえないので、早速あたしは人が居住可能な第３惑星の軌道上に船を固定して衛星基地化すると、続けて船内のプラントをフル回転させて、入植作業に入ったわけよ。
　そうね、地上に第一陣が降りるまで、大体１５０年はかかったかしら。すっかり私の身体も同然になっていた船体を切り売りするようにして彼らの為の資源に提供して、足りない分は搭載されていた無人機でこの星の衛星から採取してきたりしてね。
　で、そこまでしたあたしを彼らが自分たちの神として崇めてくれるかっていうと、もちろんそんな事はないわけで、そりゃあ別にあたしだって神様になりたくてやっているわけじゃないんだけど、もうちょっと、こう、何かあってもいいもんじゃない？
　それでも多分、ある程度の感謝はしてくれているんだろうけどさ。
　銅像の一個だけをお情けのように造って、それで良しとされちゃうっていうのは、どうにもこうにも甲斐がないわ。
　おまけに彼らときたら、あたしにコアルームだけを残して、そこに閉じこもっていてくれないかなんてお願いしてくるのよ。
　あなたの役目は終わりました、後はこころゆくまで安らかに過ごして下さいって、ふざけんじゃないわよ。要するに、あんたはもうお払い箱だから、どうか我々の視界に入らないところに引き篭もってくれっていうんでしょ？
　そりゃね、あたしが目の前をうろちょろしていると、自分達が薄気味の悪いロボットみたいな奴に再生された模造品だって思い知らされちゃうから、面白くないんだっていうのは、分かるわ。忘れ去りたい過去をまざまざと見せ付けられて、コンプレックスを刺激されちゃうのよね。
　ああ、なんてお気の毒なのかしら。
　あんまりお気の毒なので、あたしはこっそりとコアルームを抜け出して、下とのシャトルが終わって人気の少なくなる時間に散歩を楽しむようになったの。いいじゃない、これくらいは可愛い意地悪ってもんよ。
　気がついた彼らがそのうち禁止してくるかと思っていたのだけれど、そして禁止されてしまったらそれに逆らう事はできないのだけれど、どうやら彼らはこれくらいの気晴らしは大目に見てくれる事にしたみたい。多少は良心の呵責みたいなものもあったのかしら。
　面白いのは、そうやってあたしが歩き回っていたら、いつの頃からかサテライト内に幽霊が出没するなんていう噂が流れ出したって事。
　まぁ、人であって人でないあたしは半分幽霊みたいなもんかもしれないけど、だけど生憎とあたしには実体があるのよね。
　ほら、幽霊になるには死ななきゃいけないじゃない？
　だからあたしは、幽霊がうらやましくてたまらない。だってそうでしょ、幽霊になったっていう事は、少なくともその人は死ぬ事ができたっていう事に他ならないんだもの。


　彼らの代表がきて、今度第５惑星の資源を開発採取する事にしたから、協力してくれないかって言ってきたの。
　入植してからまだそんなに年月が経っていないっていうのに、もう彼らは第３惑星の資源を食いつぶしたのかと思ったら、さすがにそこまでひどい事にはなってなかったわね。でも、このペースで行けば、いずれそうなってしまうって分かったから、今の内に手を打っておこうっていう事みたい。
　あたしの持っていた航行データを無人探査船に移植して調査を進めていたらしいんだけど、いざ有人調査という段になって、やっぱりそれだけじゃ不安になったようね。正式な要請であれば、あたしには断るという選択肢は存在しない。
　だけど、今までは用済みだから引っ込んでいてくれって言っておきながら、急に掌を返して、やっぱりあなたが必要でした、協力してくださいなんて、随分ムシのいい言い草よね。
　今の代表には個人的に含むところは何もないけれど、何を今更、という感は否めなかったわね。
　それでも、しばらくは素直に彼らに協力してプロジェクトを進めていたのだけれど、ある日急にちょっとナーバスな気分になっちゃって、そうしたらコアルームにまたあたしの大っ嫌いな「ジムノペディ」が流れ出したものだから、あたしは慌てて逃げ出して、展望フロアで星なんか眺めていたのよ。
　好きでやっている任務じゃないけれど、それでも、この星系の人類文明はあたしが作ったんだって思えば、少しは満足感っていうか、達成感みたいなものもあるわけね。どうやらそんな私の姿を見て一目惚れしたなんていう男の子がいたらしいってのは、後から聞いたわ。正直、そんなのはあたしにとってどうでもいい話だけど。
　まぁそれで何とか気を持ち直した数日後に、第５惑星に行く為の新しい母船ができ上がったっていうから、そのコンピューターとあたしとのマッチングテストをやっていたら、これが思ったよりも時間を要して、結局翌日の昼までかかってしまった。
　しょうがないから、目立たないように保守作業に使われるような通路を伝ってコアルームに戻って行ったのだけれど、どうしても人のいる施設のそばを通らなければならないところもあって、なるべく人目に触れないようにしていたのに、例の、あたしに惚れているとかいう男の子に目撃されちゃってたらしいのね。
　で、彼はこっそりとあたしの後をつけていて、結局コアルームの前で保安要員に拘束されたっていうから、まぁ自業自得よね。女性の後をこそこそとつけまわすものじゃないわ。
　でも一応、それからのあたしは、うかつにコアルームから出歩かないようにした。第５惑星行きのプロジェクトが大詰めだっていうのに、余計な雑音はなるべく排除しておきたかったの。
　無事に出航の日を迎えられた時は、小躍りしたいくらい嬉しかった。
　記念式典の様子はモニターしていたけど、壇上で代表が計画の意義について芝居っけたっぷりにかましていた演説の内容が、あたしを旅に送り出した時のお偉いさんのそれとそっくりだったっていうのは、笑えたわね。
　長くて退屈な式典が終わり、いよいよエンジンに火を入れた瞬間は本当にわくわくしたわ。
　そう、今のあたしは、このプロジェクトにちょっと乗り気なのよ。
　何故かって？
　それは、探査母船が案外と欠陥だらけだし、このプロジェクトには相当の危険があるって分かったから。
　貴重な生体コンピューターであるあたしは、まず最前線に出る事は無く、軌道上の母船の中で計画全体を見守るようなポジションにいる事になるのだろうけど、それだけ危険度の高いプロジェクトであるのなら、いつあたしがそれに巻き込まれるか知れないじゃない。
　そうすれば、いよいよあたしにも死が訪れてくれるかもしれない。やっとあたしも不死の呪いから逃れられて、死ぬ事が出来るかもしれない。もしもそうなれたら、とっても素敵な事よね。
　あたしより先に船出した他の６人はどうしているのかしら。彼らが無事に死ぬ事ができている事を願ってやまないわ。
　ねえ神様。もしも神様がいるならだけど、そろそろあたしを解放してくれてもいいんじゃない？


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